小澤公平我が人生に悔いなし

父母の足跡をたどる

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島から神様が消えた

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1982年9月、母60歳の時、母と二人で渡嘉敷島へ旅行した時の話です。

渡嘉敷母

島から神様が消えた    小沢弥生

もし集団自決命令がでたら、貴方の家族は誰から殺しますか?

昭和20年3月末、アメリカ軍は沖縄の離島に上陸、集団自決はその時に行われました。

10年前の夏、息子の所へ沖縄へ移住した友人から手紙が来た、お店も成功し地元の人からも良くされて、土地も買い、運がいいことに庭の一角に穴があるので入ってみたら鍾乳洞があった。是非遊びに来てくれという内容が書かれてあった。その手紙に誘われて息子はジープに乗り、その頃出たての小型ビデオムービーを担ぎ、毛布一枚と原稿用紙を持って、二週間の予定で東京を出たのですが一カ月経っても帰って来ません。いくら男の子だからと云っても親は親なりに心配いたします。それで、息子の友人の所へ電話をいたしましたら、お店を手伝ったりしながら、飛び回ってビデオで撮りまくっているといいます。息子が申しますには、もう九月の中旬を過ぎたけれど沖縄はすごく暑いから泳げるよ、お母さんも来ないかの一言に誘われて私も沖縄へ参りました。

息子の元気な顔を見ればもう何も云う事もなく、息子のすすめるままに沖縄本島から汽船で50分の離島、渡嘉敷島に渡りました。

那覇の西方三十二キロの洋上にあって、慶良間諸島で最大の島が渡嘉敷島です。その昔は首里に来る唐船(進貢船)が水平線に姿を見せると、番所から狼煙を上げて知らせた島だそうです。島に着くと、待ちくたびれたようにバスが日照りの中に待っていて、坂道を登ったり下ったりしながら宿に着きました。民宿ですのでごく気軽に一部屋ずつもらうと、ゴザの敷布団に薄がけの布団が置いてありました。ここへ来て贅沢を言ったら叱られますから、全ては感謝、感謝とさっそく海辺に行きました。

後ろから宿のおばさんが「奥さん!ピーチパラソルを借りないとノウテンカンになるよォ!」と声を掛けてくれました。

もう華やいだ人々の声が、楽しそうに波の音と一緒に聞こえてきました。思わず目の前に広がった海の色の美しさに息を呑む思いがしました。砂浜は白、海はエメラルドブルーであり、ピンクブルーであり、コバルトブルーでもあり、太陽が真昼を過ぎた時に、全てが止まっている絵のように美しく、亀甲形の波紋がキラキラと云いようもないほどでした。

この美しい浜に米軍が上陸したなんて、その時は知る由もありませんでした。しばらく同じ船で来た大阪のデパートガール二人と子供のように遊びました、独身の息子もニコニコ顔です。妙な声で浜の高台を見ると、見張り番の年寄りも飽きてきたのか、しきりと土地の歌をダミ声で聞かせています。日帰りの客がボツボツ帰り仕度をしているので、私と息子も宿に帰りました。東京のように水は豊かに使えず、チョロチョロシャワーでどうにか体を洗って夕食のテーブルに付きました。

1982母と

泊り客は私達だけで、金魚の大きいようなお魚がお皿に乗っていて、赤青黄色と鮮やかなのですが食する気にはなれません。お米は土地で採れたべいご米であまり水分はありません。さっきピーチパラソルで声を掛けてくれたおばさんがしきりとすすめてくれるのが気になります。

そこへ、ご主人の老人が採って来たばかりのサザエを持って話しかけてきました。待ったましたとばかり息子が「おじさん!一緒にビール飲みましょう」と、自分のコップをすすめて「戦争、このあたりもひどかったでしょう」というと、宿の主人はいろいろと話しだしました。ポツンポツンと上目づかいに、主婦のパラソルのおばさんの方に気を使いながら・・・話はだんだん昭和二十年になりました。

「自分には二人の弟がいて一人は南方で戦死、一人は沖縄戦で、参謀本部付きの通信兵です。まだ十九歳でした。今は「健児の塔」に祭られていますがね・・・行方不明のまま、おそらく山の中へ逃げて自決したのでしょう」

参謀本部付きの通信兵と云えばエリートコースで、十九歳の若さです。主人の目から涙がすうっと流れましたが、老人の背筋はピンと伸びて、なかなかの男前の顔でした。

「二人の弟は死に、私だけがこの島に生き残ってのです」

さっきまで自分とか、わしとか云っていたのに、いつの間にか僕という言葉で話しだしているのです。話を聞いている私もいつか昭和二十年に頭がなっていたようです。

この宿の主婦であるおばさんは、不機嫌に私達のテーブルの回りを幾度か行き来していました。早く食事を済ましてくれたらいいのにという合図です。お勝手をしている主婦ならすぐ分かります。私は「あのう、ビールもっと下さいな」と云いながら、自分の分だけ早めに終わりにしました。息子は慌てて老人のコップにビールを注ぎ、おばさんにもすすめました。おばさんは思い直したのか。テーブルについてご主人の話に耳を傾けてくれたので私もほっとしました。

宿のご主人はいきなり厳しい顔で、私に・・・

「おくさん!この島の人たちは皆、集団自決を迫られたんですよ!年寄りも、子供も、女も、赤ん坊も皆、上陸して来た米兵の目の届かぬ山の中に隠れて、家族ぐるみの死を実行したのです。うちのばあさんなんかも斧の跡が二つありますよ」

黙って聞いていたおくさんは、自分の話題になると悲しみが込み上げてきたのか、うつむいて髪を分けて、斧の傷跡を見せてくれました。ゴマ塩色の髪の間から、赤い肌に二つの傷跡が見え、私は全身が震えるような恐ろしい話を聞いてしまいました。

1982

四十年前のこの奥さんは渡嘉敷の島の乙女であったでしょう。可愛い娘であったでしょうに・・・あの頃は私も若かった。自分の身に振りかかってきたことだったらどうしていたのでしょう。泣き叫び、わめき、気も狂う思いでしょう。・・・・案外すすり泣いて、静かに集団自決が行われていたかも知れません。耳をふさいではいけないのだ。襟を正してこの話に正面からぶつからなければ・・・

近頃だんだん自分が情けない人間になって行くのが分かります。嫌な話や、嫌いなことには逃げて逃げて、気弱に、ただ日々安穏なれと拝んでいます。正直不安なく安穏ならよいのですけれど・・・・

宿の主人は

「僕は軍隊にいましたので集団自決に参加することは出来なかったけれども、おくさん!人間はいざという時は誰から殺すと思いますか?」

「さあ・・」と、息子も私も息をのんだ静かな間があって・・・

「可愛いもの、愛するもの、大切な人から殺すんです。・・・・赤ちゃん、女の子、男の子とオカア・・・」

私はこの主人のいう言葉をはっとする思いで聞きました。・・・・平和な今の時代の若い人には、あの頃の集団自決命令を素直に聞き、国に殉ずる気持は分からないだろう?お国の命令という言葉は、絶対避けることができなかったのです。

そして、宿の主人は、唇を震わせながら

「愛するもの、いとしいものから殺します。よそのばあさんなんか殺してあげる親切はできません。そうでしょう?愛するものを敵の手に渡したくはないですからね」

息子は、その言葉を復唱するよう・・・愛するもの、いとしいものから殺します。よそのばあさんなんか殺してあげる親切はできません・・・とつぶやき急に立ち上がって、主人に飛びつくように・・

「ご主人!いま話して下さったお話、私達に下さい。お願いします。僕、一生懸命調べて沖縄戦のこと書きますから」と、テーブルに手をついて最敬礼をしたので、私も同じように頭を下げました。

なんでも、どんなことでも、わが身に振りかかってみて初めて分かるのです。多くの人の悲しみの中から生まれた平和という帯は、決してほどいてはいけないのです。きちんと結んで守っていかなければ・・・

渡嘉敷島の宿の主人はなかなか立派な人で、村のおさでもあり、宿のおばさんの傷は、山の中で倒れているところを、上陸して来たアメリカの兵隊さんが傷の手当てをしてくれて、一命を取り留めたと夜の更ける頃話してくれました。

翌朝、宿の主人はいつもの年老いた姿で、私達に沖縄戦の激しさを伝える一冊の本を下さいました。そして、丁寧に深々と頭を下げてくださいました。息子と男同士の約束が昨夜のうちに出来たのです。港までのバスに揺られながら聞いた言葉が耳から離れません。

「集団自決命令を出した本人は、平気な顔して元気に生きているんです。村の人はみんな知ってます・・・」

と、繰り返し云った言葉が忘れられません。

もう、あれから時が経ちました。宿の主人も命令者も、どうなったかは知りませんが、沖縄は長生きの島ですので、今も元気にしているかも知れません。

毎年のことですが「八月十五日」平和の誓いを一緒に守りぬきたいと、祈ります。

1992年7月15日 小沢弥生

「茅ヶ崎市に公民館を創る会」発行の息吹き「私の八月十五日」に寄稿。

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Written by 小澤公平

2013年1月8日 at 2:41 PM

カテゴリー: 市川弥生

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